バングラデシュ トイレ奇譚

「やばいやばいやばい」

 悪路をものともしない長距離バスの座席で私は腹痛と戦っていた。原因は今朝のカレーか、昨日の夕食のカレーか、その前のカレーか。容疑者がカレーだらけで特定は困難だし、たとえ犯人が見つかったとしても後の祭りでしかない。

「早くトイレ行かないと社会的に死ぬっ!」

 いくら喚いてもここはバスの中。車内トイレとかいう素敵な設備はもちろん無い。刻々と迫るタイムリミットからなんとか気をそらそうと窓の外の風景に目をやれば、バングラデシュの人々がどこまでものんびりと畑仕事をしていた。バスから1番近くにいたのは畑の様子を眺める巻きスカート……いや、ルンギ姿の男。髭面の彼はおもむろにしゃがみこみ、ルンギの先からはキラキラと光る液体が放出され始めた。お尻はしっかりとカバーされているので、何も知らなければすっごい暇そうな人にしか見えない。

「ちょっと裾まくるだけでどうして……ノーパンか? ノーパンなのか? いや、深く追及するのはやめよう」

 知らないオッサンのパンツの有無など世界一どうでもいい。そして最悪漏らせば私も強制的にノーパンだ。

 背中を這い上がる寒気が無視できないレベルになってきた。さっきから脂汗は止まらないし、二の腕の鳥肌は見なくても分かる。

「どうして彼は大自然で大らかに用を足しているのに私は全身を硬直させて痛みを堪えなくてはならないんだろう」

 今1番見てはいけないものを見てしまった。早く忘れよう。

 それから我慢の限界を3回くらい超え、自分でもよく分からない神に祈りを捧げ始めたところで、ようやくバスはサービスエリアに到着した。

 誰よりも素早くバスを降りる。遠慮などしていられない。乗客の中でサービスエリアへの到着を誰よりも待ちわびていたのは私なのだ。建ち並ぶ軽食屋たちは完全無視。高速で両足を動かし、血走っているであろう目で辺りを見回せば、腹痛に悩める者に救いの手を差し伸べるあのマークが見えた。

「あったぁぁぁ!!」

 こういう状況は世界共通なのだろう。鬼気迫る表情でトイレに向かう私を止める者は誰もいなかった。




 間一髪でピンチを脱し、お腹の平穏を取り戻した安心感で声が漏れた。

「よかった。間に合った。本当によかった」

 日本でいうところの多目的トイレくらいの広さの和式トイレ、いやここはバングラデシュだからバングラデシュ式トイレか。よく見たらボットン便所の穴の部分が前側に付いている。おつりが返ってこないので良いシステムだと思う。個室自体はなんとも頼りない鍵でプライバシーが守られているけれど、先ほどの苦難を思えばここが天国かと錯覚するほどだった。

 だけど、私の幸福感はあっさりと終了することになる。

「なん……だと……」

 紙がない。切らしているとかそういうんじゃなくて最初から無い。ちなみに長距離移動の最中に使い切ってしまったので手持ちの紙も無い。高速で思考を回転させ、ピンチを脱する必勝の一手を模索する。

「今まで必死に守ってきたパンツを犠牲にするなんてできない……ここはバングラデシュ式を試すチャンスなのかも」

 まだ試したことのない完全手動ウォシュレット。幸いにも必須アイテムの「ボトナ」はすぐ手の届く範囲にあった。

「まずは水を確保しなきゃ」

 汲み置きの水は……後始末にだけ使ってやめた。いつ用意したのかも分からない代物はリスクが高すぎる。先客の虫がいたし。室温38度、湿度120%、臭いはお察しの状況で悠長に悩んではいられない。お尻丸出しのままモジモジと移動して水道の蛇口を捻った。

「うわっ! 赤っ!」

 長い間使われていなかったであろう蛇口からは見事な赤錆色の水が流れ出てくる。

「このまま待って透明な水になったとして、それは本当に使って大丈夫なの?」

 都会生まれの甘やかされたデリケートゾーンが耐えられるのか。答えてくれる人は誰もいないし、今ここに誰かいたらもっと困る。

 そして懸念材料はもう1つ。水を入れるために用意した「ボトナ」はそもそも清潔なのか。プラスチック製で壺のような形状、その中ほどにある小さな注ぎ口まで念入りにチェックする。なんとも言えない緑色で汚れが確認し辛いのが難点だけど、とりあえず虫はいないみたい。

「まさか他人が尻を洗った道具をマジマジと観察する日がくるとは思わなかった」

 透明になった蛇口の水で何度かすすいでから「ボトナ」に満タン補給した。準備万端。




 ホームポジションに戻って腰を落とす。さあ、いよいよ正念場だ。

「ボトナは右手、洗うのは左手。ボトナは右手、洗うのは左手……」

 先達が教えてくれた大事なキーワードを繰り返し唱える。「みんなが頑なに右手でご飯食べる理由はこれかー」なんていうお決まりの感想は胸にしまっておいた。TPOが何から何まで間違っている。

「え、ちょっと待って。ムズイ、ムズイって」

 まずボトナが重い。これは片手でコントロールできる量まで水を減らせば良いからOK。
そしてめちゃくちゃ濡れる。失敗すればするほどサンダル、ジーパン、パンツが危険に晒される。勢いよく水を落とせば跳ね返ってくる危険も捨てきれない。

「なんて難しい。無傷で帰れる気がしない」

 ダメだ。諦めたらそこで試合終了だと敬愛する先生も言っていた。試行錯誤を繰り返し、水と左手を完璧なタイミングでヒットさせて、何とか初ボトナタイムを終えることができた。




「ミッションコンプリートッ!!」

 やった、やりきった。たとえ全バングラデシュ人が難なくできることだろうと私の中では一大イベントだったのだ。心の中で自分に惜しみない拍手を送る。

「さてと。……ん?」

 お尻びっしょりの私はこれから一体どうすれば良いのだろう。先達はそこまで教えてはくれなかった。

「拭くもの持ってたら手動ウォシュレットなんてやってない。ってことはまさか」

 そのまさかだった。でも、やってしまった後なのだから仕方ない。他に代案も思いつかなかったから勢いよく全部履いた。不快感は天井知らず。毎回こんな感じならトイレ往復する事態になったらどうするのか。

「もういい。早くバスに戻ろう」

 ところがそんなに簡単には解放してもらえなかった。最後の難関が手洗い場で私を待ち受ける。

「何で? 何で固形石鹸なの!? しかも使いかけのやつ!」

 どう考えても前の人が尻を洗った後に使ったであろう物体。触るにも勇気が必要な一品だ。でも洗わずに済ませるというのもどうなんだろう。

「っていうか左手が不浄ポジション担わされてるけど、右手使わずに左手を綺麗に洗うって無理ゲーじゃない?」

 仮に左手はそんなに洗わないとしよう。だけどバングラデシュ人はどんなに蒸し暑い日でも手を繋いで歩く。どちらかが右手を差し出せば、必然的に相手は左手で繋ぐことになるわけで。

「やっぱりみんなが綺麗に手を洗うしか解決方法がない。公衆衛生だいじ」

 マイ石鹸を持たない私にこの石鹸を拒否する資格はなかった。使用感とか聞かないで。




 衝撃のデビューから数日後、いざとなればボトナがあるさと呑気に構えていたら再び腹痛に襲われた。

「今回の原因は分かってる。昨日の葬式のタダ飯……!」

 ご飯食べに行こうよと誘われて行った先が葬式だっただけ。決して興味本位じゃない。だって日本じゃ見知らぬ人にまでご飯出したりしないじゃない。

「直射日光ガンガンに浴びたカレーだったからなぁ」

 一緒に食べたバングラデシュ人たちも猛烈な下り龍に襲われているため、トイレでは激しい争奪戦が繰り広げられていた。あの中を割って入る気合いも、ドア前でプレッシャーをかけられながら用を足す度胸も私にはない。

「彼らには悪いけど外国人の特権を使わせてもらおう」

 意気揚々とサンダルを引っ掛けて宿舎の扉を開いた。

 目指すのはこの辺りで1番の高級ホテル。一目で外国人だと分かる日本人は小汚い……じゃなくて多少ラフな格好でもノーチェックで入ることができる。見た目のせいで買い物とかは値段ふっかけられたりすることも多い。でも良いこともそれなりにあったりするのだ。

「あそこのトイレは洋式で、もちろん紙もあって、衛生的で、なんかもういい匂いとかもするんだよね」

 ご近所No1トイレに心躍らせていた私に下腹部からのエマージェンシーサインが届く。そう、結論から言うと私はホテルまでたどり着けなかった。あの激しさはもう自分の努力とかでどうにかなるもんじゃない。

 駆け込んだのはホテルから少し離れた所にあるレストラン。適当にオーダーしてトイレの場所を聞き、あくまで平静を装いつつ教えられた場所まで移動する。

「ホテルじゃなかったのは残念だけど、ここも綺麗なレストランじゃない」

 スタバかな? っていうくらいのお値段のコーヒーを出すだけある。せっかくだから満喫しよう。トイレも貸してもらうことだし。

「って紙ないんかーい!」

 日本語のツッコミは私以外の誰にも理解されることなく虚しく反響した。ホテルで存分に使えばいいと思っていたので紙は持ってきていない。でも、お腹の具合的にも後に引ける状況じゃないのでそのまま前進する。大丈夫、私はボトナ経験者だ。こわいものなどもう何もない。

「えーと、ボトナ……ボトナ……ってなにこれ!?」

 ボトナだということは分かる。だって、他にそれっぽい容器無いし。プラスチック製ボトナのワンランク上、ブリキ製のボトナが私を待ち構えていた。

「そっかぁ。こういうところで高級感出してきたかぁ」

 汚れを念入りにチェックしようにもスタンダードクラスのボトナより注ぎ口が細くて長い。何度かすすいで後は運を天に任せることにした。お腹の平穏を取り戻す儀式の最中も、気になるのは目の前のハイクラスボトナのことばかり。

「どっかで見たことあるんだよね。ガーデニング用のジョウロ? 注ぎ口こんなに曲がってたっけ? んー……あ、分かった! 喫茶店にあるやつだ!」

 大発見に手を打った瞬間、さっき自分がコーヒー注文したのを思い出した。お腹も落ち着いたしもう考えるのやめよう。おもむろにハイクラスボトナを右手に持ち、左手で完全手動ウォシュレットを……。

「あれ? え? 何で?」

 注ぎ口の位置が5センチ変わることで難易度が格段に上がっていた。おまけに角度も変わっているため、全く思った通りにいかない。過去に培った全てのテクニックに修正を迫られ、焦ることで悲劇が悲劇を呼び寄せる。そして水の残量はどんどん減っていくのに、的にヒットさせるどころか足元に水が直撃するという最悪の事態に。

「ボトナ経験者だといい気になっていたのに、私はただ使ったことがあるというだけのビギナーだったんだ」

 自らの立ち位置を再確認してがむしゃらにボトナと向き合う。用意した水が尽きる頃にやっとのことでミッションを終え、

「弘法は筆を選ばずと言うけど、バングラ人はボトナを選ばないんだ。私もそうなりたい」

と意味不明な感想を口走っていた。何もかも暑さのせいに違いない。


 ちなみに、この後のコーヒーは下半身ずぶ濡れで飲んだ。美味しかった。




 いろいろあったバングラデシュ滞在も最終日。空港で見送りの人たちに別れを告げ、長いフライトに備えて私はトイレに向かった。

「もうボトナともお別れかと思うとちょっと寂しい」

 質の悪い紙を使うくらいなら手動ウォシュレットの方がお尻に優しい。そう気付いてからの私はすっかりボトナ推進派になり、日本に買って帰ろうかと随分悩んだ。現地の友人に相談したら笑われたので購入は思いとどまったけど。

「今日は紙を持っているけどボトナを使おう」

 決意を胸に秘めて入ったトイレにはボトナが用意されていた。が、ボトナの上にホースの付いた水鉄砲のような物が置いてある。そして案の定、備え付けの紙は無い。

「ここまで来てニューカマー。いいでしょう。受けて立ちましょうとも」

 トイレを調べてみたら水洗式だった。念のため1回流してみたら本当に日本の和式トイレと同じだった。この結果、水鉄砲が簡易トイレを流すための物では無いと確信。

「もしかしてこれは左手を汚さないために考え出された画期的なアイテムなのでは……?」

 説明はどこにも無かったけれど推理が正しいという自信はあった。こうして、興味本位で尻穴専門のヒットマンとしてデビューすることが決定。狙いは慎重に定める。間違って服に発射してしまえばティッシュでは到底カバーしきれない。狙って、狙って、狙いすまして引き金を引く。

「っ……いったぁーい!!」

 命中はした。でも「誰基準で調整したの? お尻の穴鋼鉄製なの?」と問い詰めたくなる勢いで水が発射された。痛い。痛すぎる。試し撃ちしてからにすればよかった。

「私、やっぱりボトナ派だわ」

 トイレを隅々まで調査しても水圧を調節する装置は無かった。痛むお尻を庇いつつ服を直し……

「いつものクセでそのまま履いちゃった」

日本に戻って紙を使う生活に戻れるのだろうか。ほんの少し不安を覚えながら私はタイ行きの飛行機に乗った。ズボン濡れたまま? 大丈夫、慣れてるから!

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